中国经历
1940年3月,爱新觉罗·嫮生生于日本东京。同年6月,随父亲溥杰和母亲嵯峨浩返回“满洲国”。
1945年,苏联红军出兵东北,日本战败,“满洲国”也随之崩溃。嫮生与母亲嵯峨浩经过多方辗转,于1947年重返日本。其后,跟随母亲在外公嵯峨侯爵家生活。
嫮生先后在学习院初等科、学习院女子中等科・学习院女子高等科学习。期间,姐姐慧生疑似自杀于天城山。
1960年3月,嫮生于学习院女子短期大学家庭生活科毕业。
1961年,溥杰被特赦释放,嫮生随嵯峨浩前去中国探望16年未见的父亲。1963年,嫮生再度前往中国。
1968年,嫮生与同嵯峨家有深交的福永家次男福永健治结婚,婚后更名为“福永嫮生”。两人育有五名子女。
嫮生一直致力于中日友好。目前,她居住在兵库县西宫市。
日本经历
昭和15年(1940年)3月,溥杰与嵯峨浩(日本的侯爵家出身)夫妇的次女,暂时回到了母亲的出身地东京,嫮生在这里诞生了。同年6月,前往父亲所在的满洲(现在的中国东北部)。
昭和20年(1945年)日本投降的同时伪满洲国解体,父亲和母亲分离。嫮生和母亲一起在中国大陆不停流转了1年4个月,最终于昭和22年(1947年)再返回日本。(详细可以参照《嵯峨浩流转的日子》)。
在返回日本后,到了日吉(神奈川县横滨市港北区)的娘家嵯峨家中成长。另一方面,父亲在苏维埃联邦哈巴罗夫斯克和中国的抚顺、哈尔滨过着收容生活。因此,与父亲的通话通信是受限的。1957年(昭和32年),关系非常好的姐姐慧生死亡(天城山殉情事件)。经过学习院初等科、学习院女子中等科、学习院女子高等科,最终于昭和35年(1960年)3月在学习院女子短期大学家庭生活科毕业。
昭和35年(1960年)11月,父亲溥杰被释放,第二年嫮生和母亲嵯峨浩一起远渡中国,和父亲相隔16年后再会。父母重新在北京(父亲的出生地)开始了夫妻生活,嫮生回到了日本,并加入了日本籍(归化)。昭和38年(1963年)再次去中国,父母一起度过了1年的时光。这个时候曾出现在タケダ化妆品的报纸广告中。
此后,在嵯峨家的祖母家中进行新娘修业,昭和43年(1968年),与母亲的妹妹泰子(香淳皇后的女官)的婆家,嵯峨家私交很深的福永家(兵库县神户市所在)的次子(泰子的丈夫的侄子)结婚,育有5个孩子。
现在,基于自身的体验和从父母学到的事物,进行着日中友好和战争体验的讲演等活动,出版了母亲的著作《流转的王妃》(主妇和生活社)的日后谭,《流转的王妃爱新觉罗溥杰·浩 爱的书信》(文艺春秋,2011年10月)。目前在兵库县西宫市居住。
日本经历原文
昭和15年(1940年)3月、溥杰と嵯峨浩(日本の侯爵家出身)夫妇の次女として、一时的に戻っていた母の出身地・东京で生まれる。1940年6月に父のいる満州(现在の中国东北部)に渡る。
昭和20年(1945年)日本の降伏とともに満州国は解体し、父と母は生き别れとなる。嫮生は母とともに1年4ヶ月にわたって中国大陆を流転した末、昭和22年(1947年)日本に引き扬げてくる(详细は嵯峨浩#流転の日々を参照のこと)。
日本に引き扬げた後は、日吉(神奈川県横浜市港北区)に移っていた母の実家の嵯峨家で育つ。一方、父はソビエト连邦のハバロフスクや中国の抚顺・ハルビンで収容生活を送っていたため、父とのやり取りは文通に限られた。昭和32年(1957年)、大変仲の良かった姉の慧生が死亡(天城山心中)。学习院初等科・学习院女子中等科・学习院女子高等科を経て、昭和35年(1960年)3月、学习院女子短期大学家庭生活科卒业。
昭和35年(1960年)11月、父溥杰は釈放され、翌年母らとともに中国に渡り、父と16年ぶりに再会する。父母は北京(父の出身地)で再び夫妇生活を始めたが、嫮生は日本に戻り、日本に帰化する。昭和38年(1963年)に再び中国に行き、1年程父母と一绪に过ごす。この顷にタケダ化粧品の新闻広告に出たこともある。
その後、嵯峨家の祖母のもとで花嫁修业を行い、昭和43年(1968年)、母の妹・泰子(香淳皇后の女官)の嫁ぎ先であり、嵯峨家と亲交の深い福永家(兵库県神戸市に所在)の次男(泰子の夫の甥)と结婚し、5人の子を储ける。
现在は自身の体験や父母から学んだことを基にした日中友好や、戦争体験の讲演等で活动しており、母の著书『流転の王妃』(主妇と生活社)の後日谭で、『流転の王妃 爱新覚罗溥杰・浩 爱の书简』(文艺春秋、2011年10月)を発刊。兵库県西宫市在住。